映画では、衝撃のラストシーンに、誰が悪かったのか?と一番の議論の的になったのが、ヒトハ・フタバです。
ヒトハはフタバの回復と復讐のため人魚を殺害し、フタバとともに『永遠のいのち』を手に入れました。そうして手に入れたのが、単三電池で動くからだです。
単三電池は衝撃のグッズ化が話題になりましたが、これってそのまま単なる電池として読むより、電池が何かのメタファーになっているとして読めないでしょうか?
ここから先はあくまで一意見としての考察にはなりますが、思い当たるものとしては、『魂』が近いのではと考えます。
電池が抜けると動けない、電池があればまた元通りに動き出す…。
これが魂だとしたらピッタリではないですか?
ではなぜ人魚を食べると魂が電池化してしまうのか。
人(ちいかわ族?)としての魂(倫理観・道徳観)がなくなり、機械のように善悪判断ができなくなった証として電池になってしまうと考えています。
そう考えてみたとき、ヒトハ・フタバの行動にも思い当たるところがあります。
人魚の殺害までは、まだフタバを助けるためという大義名分がありました。しかもフタバは人魚たちにやられたという情状酌量の余地があります。
でも、無差別に島民を襲うセイレーンを見て、セイレーンが襲ってくる事情を説明するでもなく、罪を告白することもなく、攫われる島民たちやそれを嘆く島民たちを横目に自己保身に走る姿は、倫理観を疑わざるを得ません。
そして最後まで反省をした様子もありません。
魂を喪い、機械のように心をなくしてしまったと読めないでしょうか。
ここで、思い出してほしいのは鬼カレーです。
ちいかわ達がセイレーンを撃退するのに使ったカレーづくりのときに参考にした激辛カレー。
作者インタビューで事前に見ておくべき話として、作者ナガノ氏がこの話を挙げています。
カレーの辛さの比較対象として出されただけの話を敢えて紹介していますが、なぜでしょう?
内容としては、激辛の鬼カレーしかメニューにない店にちいかわ・ハチワレ・ウサギが行き、辛くて食べきれないちいかわの分を定員に気付かれる前にハチワレ・うさぎが肩代わりして食べることで完食記念の写真を撮る、という話です。
これ、構成がヒトハ・フタバの行動と対立構造になっているのに気がつきましたか?
ハチワレ・ウサギはちいかわの食べ残しの「罪」を肩代わりして完食する。
ちいかわを守るための肩代わりになっています。
一方で、ヒトハ・フタバは人魚殺しの罪を島民に肩代わりさせて逃げる。
罪と罰を他人に肩代わりさせる。
こうした行動が「鬼」のモチーフと合わせて効いてきます。
その鬼カレーを超えるものとして登場するのが、キャロライナリーパーという激辛唐辛子です。
これは、別名:死神のスパイス。
鬼カレーを超えるのは、もう死神しかないんですよね。
セイレーンに食べさせるものではありますが、結果的にヒトハ・フタバを守ることになるのが「死神」。
ものすごい皮肉ではないでしょうか?
2人はもう永遠のいのちを得て、死ぬことは叶いません。
ただ罪を重ねる鬼になってしまった。
罪を償うには、檻に入れられ、「なんかずっとくらいとこ」にいくしかありません。
電池化しているからだであっても、意識もあり恐怖も苦痛も感じる状態で永遠を味わうことになります。
死すら救済になる状態から逃げられない。
人魚を食べるという行為に対して与えられる罰。
禁忌を犯して魂をうしなった者たちが罪を重ねる様を知っているからこその、セイレーンの執拗なまでの犯人特定であり、報復なのでしょうか。
ヒトハ・フタバも最初は互いを思いやる普通の島民だったはずです。
ヒトハ・フタバは体が電池式となってしまったこと以上に重たい罰。
魂を喪い、死ぬことが叶わなくなった2人は、人なのでしょうか?鬼なのでしょうか?
鬼だとすれば、人魚殺しの罪を犯したあと、どこから鬼になってしまっているのでしょう…?
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