ちいかわ映画考察-島次郎って何者?!守り神の貝汁カレー説-

映画のラストで、ちいかわ達が激辛カレーを食べさせることでセイレーンを撃退できたのはなぜでしょうか?
セイレーン討伐方法を話し合っていたとき、ちいかわが『カレーをつくる!』と言い出したときはビックリしましたよね。
セイレーンの事情も汲まずに報復をすることの是非に悩むちいかわ達ですが、これ以上の被害拡大は避けたいと悩んだ末に出た、ちいかわの討伐とは程遠いかわいい発想に、緊迫した空気がふわっと緩みました。

ただ、怒りのあまり暴走したセイレーンに対し、辛いもので撃退というのはあまりに無謀すぎはしませんか?
大体怒っている人に激辛カレーを食べさせたところで、一時的に動きは封じられるにしても後からブチ切れられるのがオチです。

そんな謎の発案ではありますが、セイレーン撃退には成功しました。
表面的には、単に辛いものを食べてセイレーンが暴れた際、偶然ヒトハ・フタバの電池が見えたために島民をもう襲わないと約束した、という訳ですが、これはセイレーンにカレーを『食べさせる』ことが大事だったのではないでしょうか。

そもそも、この映画、ずーっと『食べる』『食べられる』という立場が何度も逆転しながらストーリーが進んでいくのに気がつきましたか? 

①セイレーンの力で育った作物を島民が食べ、作物から作った料理を捧げることで需要と供給のバランスが取れていた

元々、島民たちはセイレーンに捧げ物として料理を渡して食べてもらい、代わりにセイレーンは歌の力で作物を育てる ** ことで、作物の需要と供給バランスを保っていました。
島民たちは、セイレーンや人魚を畏怖すると同時に、捧げ物をし、共生していました。
セイレーンの遣いである人魚はハーモニーで歌の力を強化するよう描かれており、人魚も作物の育成に関与していたと考えられます。
島民たちにとってセイレーンたちは、ある種、食べ物を恵を与えてくれる神のような生き物とも言えます。

島民たちも豪華な特産品がたくさん用意できるほどその恩恵を受け取っていました。
ハチワレとちいかわが醤油がもらえることに驚いていましたが、醤油を作れるほど、安定した収穫量があるからこそ醤油の醸造ができたのだと考えられます。(ちいかわ生活圏では醤油は洞窟で採取するもののようですしね)

②ヒトハとフタバが人魚を殺害して食べてしまう(恩恵を受け取る側が与える側を殺害し、立場が逆転)

セイレーンの尾びれがフタバに当たり、瀕死のフタバを助かるため、ヒトハが人魚を殺害してフタバに食べさせてしまいます。

先述のとおり、セイレーンたちは食べ物を供給してくれるいわば神のような存在にも関わらず、それをヒトハとフタバは食べてしまう。
捧げ物をする側が祀られる神を食べ、セイレーン🟰食べ物を与える、島民🟰受け取る側という立場が逆転してしまいます。
食べるというのは、食べものをもつ力を取り入れ、自分と同化するという意味が重ねられることがあります。
エデンの園における禁断の果実なんかも一番有名な例のひとつですね。(ちいかわ映画でのエデンの園については別記事参照 リンク貼る🔗)

セイレーンの恵を受け取るだけでなく力の元となる人魚を殺して食べてしまうことで、ヒトハとフタバは、いわば神の力である永遠の命を手に入れます。

③セイレーンが島民を食べる

人魚を食べられて怒ったセイレーンは今度は島民を食べ始めます。
島民に間接的に食べ物を与えて食料を得ていたセイレーンが、直接島民を食べてしまうのです。
一気にホラー映画じみてきました。ここで因果応報の円環から外れ、無関係の島民にまで被害が到達します。
島民にとってはまさに神の暴走ですが、セイレーンは事件と無関係のちいかわ達は助けたりと自我を忘れたというよりもセイレーンなりの論理で動いており、人智を超えた存在であることが伺えます。

④ちいかわ達が**激辛カレーをセイレーンに食べさせることで撃退します。

シーサーが作ったカレーに島二郎の激辛スパイスを混ぜたものを食べ、逃げ出します。

ちいかわ達は、セイレーンにカレーを「食べさせ」ます。

なぜ「食べさせる」だったのでしょうか?

セイレーンを倒すにせよ、島に近付けないようにするなら、もっと直接的な方法はいくらでもあります。
ちいかわの飴がセイレーンに効いた経験に、島二郎の激辛カレーを組み合わせた発想とはいえ、「激辛カレーでセイレーンの撃退」はちょっと無理がないでしょうか。

そして結果的に、セイレーンはカレーを食べ、島民を襲うのをやめる。

ここで①〜③を振り返ると、ちょっと面白いことが見えてきます。
食べ物を与える・与えられる関係
→ヒトハ・フタバが人魚を食べたことにより関係が破綻
→捕食者・被捕食者の関係が逆転
と関係性が『食べる』を通じて転換しています。

ここで、外部からの食べ物をセイレーンに取り込ませることで、セイレーンの暴走を止めることができたのではないでしょうか。
これは、作ったのがシーサーだということにも意味があると思われます。
映画の流れからすると、島二郎はカレー屋を営んでおり、島二郎のカレーから着想を得たのであれば島二郎がカレー作りをするのが自然な流れだと思いますが、作るのはあくまでシーサーです。
ちいかわ達と普通に生活しているので忘れがちですが、シーサーは他のちいかわ達とは違って、言うまでもなく沖縄の守護『神』です。(シーサーについては別記事参照。🔗リンク貼る)

これはあくまで一つの仮説ではありますが、ちいかわ世界では特に神のような働きはしていないものの、セイレーンという巨大な神に対抗できる食べ物を作るという意味では、シーサーにしかできない役割だったのではないでしょうか。
元々はセイレーンの上半身は犬張子だと作者インタビューでも名言されている通り、セイレーンはある種の守り神です。
作中でも普段は捧げ物の食べ物を食べ、海で遊び、事件と無関係な観光客であるちいかわ達を誤解で襲ったときには謝罪するなど基本的には穏やかな神であることが伺えます。
人魚を食べられた怒りで暴走したセイレーンに、守護神であるシーサーが作ったカレー食べさせることで、シーサーの穏やかな神性を取り入れ、セイレーン自身も神格を取り戻すことができたのではないでしょうか。

⑤ヒトハとフタバは、セイレーンに永遠を『味わわせる』

ラストシーンは意見が分かれるところではありますが、セイレーンはヒトハとフタバに電池入れができているのをみています。そして、ちいかわ達が島を去った後、セイレーンは、2人が逃げた島の方へ向かっているように見えます。
そして、セイレーンは犯人を見つけたら、体ぴったりの檻に入れて、なんかずっと深くて暗いところで永遠のいのちを『味わってもらう』、と明言していました。

この、単に閉じ込める、でも捕まえる、でもなく、**『味わわせる』。
しかも体ピッタリの檻で深くてくらいところ、で。

人魚が食べられたセイレーンからの最上の報復としてピッタリではないですか…?

人魚を食べたばっかりに、何もできず、見えず、ただ人魚の命の重みを永遠に食べさせられる、これ以上に重い永遠の形があるでしょうか…。
食べる・食べられるというテーマとも繋がって読める秀逸な表現ですよね。

ここまで繰り返されてきた、いろんな形での食べる・食べられる の応報はこれで着地したように見えます。
では、最初にセイレーンから作物の恵を受け取っていたヒトハ・フタバ以外の島民たちはどうでしょうか?

島民たちは、セイレーンの恵で得た作物を使って作った特産品を、セイレーン討伐の報酬としてちいかわたちに差し出しています。

そして、ラストシーンではセイレーンたちはヒトハ・フタバのいる島へ行ったことで元いた島からは去ってしまったようにも見えます。
島の歌も、美味しい屋台がてんこ盛り、たこやき、ケバブ、すき焼き、焼きそば 等たくさんのおもてなしが用意できていたのに、最後のお見送り時には貝汁カレーのみ。

これはただセイレーンが去った結果なのでしょうか?あるいはーーーー…。かわ映画考察-島次郎って何者?!守り神の貝汁カレー説-

映画のラストで、ちいかわ達が激辛カレーを食べさせることでセイレーンを撃退できたのはなぜでしょうか?
セイレーン討伐方法を話し合っていたとき、ちいかわが『カレーをつくる!』と言い出したときはビックリしましたよね。
セイレーンの事情も汲まずに報復をすることの是非に悩むちいかわ達ですが、これ以上の被害拡大は避けたいと悩んだ末に出た、ちいかわの討伐とは程遠いかわいい発想に、緊迫した空気がふわっと緩みました。

ただ、怒りのあまり暴走したセイレーンに対し、辛いもので撃退というのはあまりに無謀すぎはしませんか?
大体怒っている人に激辛カレーを食べさせたところで、一時的に動きは封じられるにしても後からブチ切れられるのがオチです。

そんな謎の発案ではありますが、セイレーン撃退には成功しました。
表面的には、単に辛いものを食べてセイレーンが暴れた際、偶然ヒトハ・フタバの電池が見えたために島民をもう襲わないと約束した、という訳ですが、これはセイレーンにカレーを『食べさせる』ことが大事だったのではないでしょうか。

そもそも、この映画、ずーっと『食べる』『食べられる』という立場が何度も逆転しながらストーリーが進んでいくのに気がつきましたか? 

①セイレーンの力で育った作物を島民が食べ、作物から作った料理を捧げることで需要と供給のバランスが取れていた

元々、島民たちはセイレーンに捧げ物として料理を渡して食べてもらい、代わりにセイレーンは歌の力で作物を育てる ** ことで、作物の需要と供給バランスを保っていました。
島民たちは、セイレーンや人魚を畏怖すると同時に、捧げ物をし、共生していました。
セイレーンの遣いである人魚はハーモニーで歌の力を強化するよう描かれており、人魚も作物の育成に関与していたと考えられます。
島民たちにとってセイレーンたちは、ある種、食べ物を恵を与えてくれる神のような生き物とも言えます。

島民たちも豪華な特産品がたくさん用意できるほどその恩恵を受け取っていました。
ハチワレとちいかわが醤油がもらえることに驚いていましたが、醤油を作れるほど、安定した収穫量があるからこそ醤油の醸造ができたのだと考えられます。(ちいかわ生活圏では醤油は洞窟で採取するもののようですしね)

②ヒトハとフタバが人魚を殺害して食べてしまう(恩恵を受け取る側が与える側を殺害し、立場が逆転)

セイレーンの尾びれがフタバに当たり、瀕死のフタバを助かるため、ヒトハが人魚を殺害してフタバに食べさせてしまいます。

先述のとおり、セイレーンたちは食べ物を供給してくれるいわば神のような存在にも関わらず、それをヒトハとフタバは食べてしまう。
捧げ物をする側が祀られる神を食べ、セイレーン🟰食べ物を与える、島民🟰受け取る側という立場が逆転してしまいます。
食べるというのは、食べものをもつ力を取り入れ、自分と同化するという意味が重ねられることがあります。
エデンの園における禁断の果実なんかも一番有名な例のひとつですね。(ちいかわ映画でのエデンの園については別記事参照 リンク貼る🔗)

セイレーンの恵を受け取るだけでなく力の元となる人魚を殺して食べてしまうことで、ヒトハとフタバは、いわば神の力である永遠の命を手に入れます。

③セイレーンが島民を食べる

人魚を食べられて怒ったセイレーンは今度は島民を食べ始めます。
島民に間接的に食べ物を与えて食料を得ていたセイレーンが、直接島民を食べてしまうのです。
一気にホラー映画じみてきました。ここで因果応報の円環から外れ、無関係の島民にまで被害が到達します。
島民にとってはまさに神の暴走ですが、セイレーンは事件と無関係のちいかわ達は助けたりと自我を忘れたというよりもセイレーンなりの論理で動いており、人智を超えた存在であることが伺えます。

④ちいかわ達が**激辛カレーをセイレーンに食べさせることで撃退します。

シーサーが作ったカレーに島二郎の激辛スパイスを混ぜたものを食べ、逃げ出します。

ちいかわ達は、セイレーンにカレーを「食べさせ」ます。

なぜ「食べさせる」だったのでしょうか?

セイレーンを倒すにせよ、島に近付けないようにするなら、もっと直接的な方法はいくらでもあります。
ちいかわの飴がセイレーンに効いた経験に、島二郎の激辛カレーを組み合わせた発想とはいえ、「激辛カレーでセイレーンの撃退」はちょっと無理がないでしょうか。

そして結果的に、セイレーンはカレーを食べ、島民を襲うのをやめる。

ここで①〜③を振り返ると、ちょっと面白いことが見えてきます。
食べ物を与える・与えられる関係
→ヒトハ・フタバが人魚を食べたことにより関係が破綻
→捕食者・被捕食者の関係が逆転
と関係性が『食べる』を通じて転換しています。

ここで、外部からの食べ物をセイレーンに取り込ませることで、セイレーンの暴走を止めることができたのではないでしょうか。
これは、作ったのがシーサーだということにも意味があると思われます。
映画の流れからすると、島二郎はカレー屋を営んでおり、島二郎のカレーから着想を得たのであれば島二郎がカレー作りをするのが自然な流れだと思いますが、作るのはあくまでシーサーです。
ちいかわ達と普通に生活しているので忘れがちですが、シーサーは他のちいかわ達とは違って、言うまでもなく沖縄の守護『神』です。(シーサーについては別記事参照。🔗リンク貼る)

これはあくまで一つの仮説ではありますが、ちいかわ世界では特に神のような働きはしていないものの、セイレーンという巨大な神に対抗できる食べ物を作るという意味では、シーサーにしかできない役割だったのではないでしょうか。
元々はセイレーンの上半身は犬張子だと作者インタビューでも名言されている通り、セイレーンはある種の守り神です。
作中でも普段は捧げ物の食べ物を食べ、海で遊び、事件と無関係な観光客であるちいかわ達を誤解で襲ったときには謝罪するなど基本的には穏やかな神であることが伺えます。
人魚を食べられた怒りで暴走したセイレーンに、守護神であるシーサーが作ったカレー食べさせることで、シーサーの穏やかな神性を取り入れ、セイレーン自身も神格を取り戻すことができたのではないでしょうか。

⑤ヒトハとフタバは、セイレーンに永遠を『味わわせる』

ラストシーンは意見が分かれるところではありますが、セイレーンはヒトハとフタバに電池入れができているのをみています。そして、ちいかわ達が島を去った後、セイレーンは、2人が逃げた島の方へ向かっているように見えます。
そして、セイレーンは犯人を見つけたら、体ぴったりの檻に入れて、なんかずっと深くて暗いところで永遠のいのちを『味わってもらう』、と明言していました。

この、単に閉じ込める、でも捕まえる、でもなく、**『味わわせる』。
しかも体ピッタリの檻で深くてくらいところ、で。

人魚が食べられたセイレーンからの最上の報復としてピッタリではないですか…?

人魚を食べたばっかりに、何もできず、見えず、ただ人魚の命の重みを永遠に食べさせられる、これ以上に重い永遠の形があるでしょうか…。
食べる・食べられるというテーマとも繋がって読める秀逸な表現ですよね。

ここまで繰り返されてきた、いろんな形での食べる・食べられる の応報はこれで着地したように見えます。
では、最初にセイレーンから作物の恵を受け取っていたヒトハ・フタバ以外の島民たちはどうでしょうか?

島民たちは、セイレーンの恵で得た作物を使って作った特産品を、セイレーン討伐の報酬としてちいかわたちに差し出しています。

そして、ラストシーンではセイレーンたちはヒトハ・フタバのいる島へ行ったことで元いた島からは去ってしまったようにも見えます。
島の歌も、美味しい屋台がてんこ盛り、たこやき、ケバブ、すき焼き、焼きそば 等たくさんのおもてなしが用意できていたのに、最後のお見送り時には貝汁カレーのみ。

これはただセイレーンが去った結果なのでしょうか?あるいはーーーー…。

コメント

タイトルとURLをコピーしました